1. ある日突然、「役員」になった佐藤さんの悩み
佐藤さんは、中堅商社で20年間、地道にキャリアを積んできた誠実な社員でした。営業部長として実績を上げた彼に、ある日社長から嬉しい知らせが届きます。「佐藤君、君の功績を認め、来月から取締役に任命したい。君のような人材に経営に参画してもらう必要がある」。
佐藤さんは歓喜しました。勤続20年の節目に、ついに経営層へと昇進したのです。その際、社長はこう付け加えました。「これまでの社員としての退職金については、後で取締役を退任する時にまとめて支払うから安心しなさい」。佐藤さんは社長を信頼し、特に契約書の書き換えなどはせず、そのまま役員としての職務に邁進しました。
しかし、数年後、佐藤さんはふとした不安に襲われます。韓国の労働法では、賃金や退職金の請求権には「時効」があることを知ったからです。もし、社員から取締役に昇進した時点が、法的に「社員としての退職」とみなされていたら、すでに時効で退職金を受け取る権利が消えてしまっているのではないか。佐藤さんは夜も眠れないほどの不安に陥りました。
2. 法的な争点:時効のカウントダウンはいつ始まるのか?
このケースで最も重要なのは、「退職金請求権の消滅時効の起算点(カウントが始まる日)」がいつになるかということです。社員が役員に昇進した場合、それは単なる昇進なのか、それとも「労働者としての契約終了」と「経営者としての契約開始」という二つの出来事が同時に起きたのか。それによって、時効の3年という時計がいつから動き出すかが決まります。
3. 韓国法における原則と解釈
韓国の労働関係法および判例では、社員が役員に就任した際の扱いについて以下のように規定しています。
原則: 社員が勤続期間の断絶なく取締役に選任された場合、原則として「労働者としての雇用関係」は終了したものとみなされる。
したがって、退職金の請求権が発生し、消滅時効が進行し始めるタイミングは以下の通りとなります。
- 起算点: 取締役に選任された日(=労働者としての関係が終了した日)
- 時効期間: 3年(賃金債権の消滅時効)
ただし、ここには重要な「実態主義」という例外が存在します。
- 実態が労働者の場合: 肩書きは「取締役」であっても、実際には代表者の指揮監督下にあり、従属的な関係で業務を行っている(実質的な労働者である)場合は、雇用関係が継続しているとみなされます。
4. 韓国裁判所の判断アプローチ
韓国の裁判所は、形式的な役職名よりも「実質的な勤務形態」を重視します。単に名称が「理事」や「取締役」であっても、以下のような状況であれば、依然として「労働者」であると判断する傾向にあります。
- 業務執行上の権限がほとんどなく、上司から具体的な指示を受けて動いている。
- 出退勤時間が厳格に管理されており、勤怠管理の対象となっている。
- 報酬が経営成果に基づくものではなく、固定的な給与として支払われている。
このように判断された場合、退職金の請求権は「役員から完全に退職した日」に発生し、そこから時効が始まります。
5. 佐藤さんのケースに法を当てはめると
佐藤さんの状況を分析してみましょう。ここで分かれ道となるのは、彼が取締役になってからの「実態」です。
パターンA:真の経営者として活動していた場合 佐藤さんが取締役として独自の決裁権を持ち、社長と同等の経営判断に携わっていたのであれば、彼は「労働者」ではなく「経営者」です。この場合、時効は「取締役に就任した日」からスタートしています。もし就任から3年以上が経過しており、その間に請求や権利確定の合意がなければ、残念ながら社員時代の退職金請求権は時効で消滅している可能性が高くなります。
パターンB:名前だけの取締役(実質的な労働者)だった場合 佐藤さんが取締役になっても、相変わらず社長の細かい指示に従い、部下を管理する「部長」のような役割を継続していたのであれば、法的には依然として「労働者」です。この場合、雇用関係は断絶しておらず、時効は「役員を辞めて会社を完全に去る日」から始まります。したがって、現時点で時効を心配する必要はありません。
6. 結論:佐藤さんの運命と、私たちへの教訓
佐藤さんが確認したところ、彼は取締役就任後も社長の強い指揮下にあり、実質的な権限はほとんどない「名ばかり取締役」であったことが分かりました。結果として、裁判所の判断基準に照らせば彼は依然として「労働者」であり、退職金請求権の時効はまだ始まっていない(または最終退職後から始まる)ため、権利は守られることになりました。
【同様の状況にある方へのアドバイス】
- 就任時の書面を確認せよ: 社員から役員になる際、「退職金を精算したか」あるいは「精算を繰り延べる合意をしたか」を記した書面を残してください。口約束は後で証明することが非常に困難です。
- 実態を記録せよ: 役員就任後も実質的に労働者として働いている場合は、業務指示書やメール、出勤記録などを保存しておきましょう。これが「実質的な労働者」であることを証明する武器になります。
- 3年の壁を意識せよ: 韓国法における賃金・退職金の時効は3年と非常に短いです。疑問がある場合は、就任から3年が経過する前に専門家に相談し、権利を確定させる手続き(請求書の送付など)を検討してください。




















