「家族スパイ団」にされた農協職員
1981年、韓国南西部の全羅南道・珍島で農協職員として働いていたパク・ドンウンは、母親やきょうだい、叔父夫婦ら親族10人とともに、突然、国家安全企画部(当時の情報機関)の南山地下施設へ連行された。当時36歳。職場では厳格で有能な職員として知られていた。
捜査機関が持ち出したのは、朝鮮戦争の時期に行方不明になった父、パク・ヨンジュンの存在だった。父親に取り込まれた息子が、24年間にわたって北朝鮮のために活動していたという筋書きが作られた。パクが12歳のころからスパイとして働いていたという主張は、家族の人生を一変させる重大な容疑となった。
国が人を守るはずの立場を反転させ、拷問と虚偽の自白によって一つの家族を「敵」として扱った事件だった。
拷問で引き出された虚偽の自白
パクと家族に対する取り調べでは、命の危険を感じるほどの激しい拷問が行われた。息子の叫び声を聞かされることは母親にとっても大きな苦痛となり、母親の悲鳴を耳にしたパクは、捜査官が求める内容を認めざるを得なかったという。
こうして全斗煥(チョン・ドゥファン)軍事政権の下、家族は「家族スパイ団」として扱われた。ここでいう国家暴力とは、政府や公権力が市民を守るどころか、権力を使って不当に拘束したり、身体や生活を傷つけたりすることを指す。身に覚えのない罪を認めさせられれば、本人だけでなく、家族や地域社会との関係まで長く損なわれる。
パクは一審で死刑を言い渡され、控訴審(判決を上級の裁判所に見直してもらう手続き)では無期懲役となった。1998年、拘束から17年5カ月8日を経て釈放されたが、自由を取り戻したことだけで、失われた年月や家族の苦しみが消えるわけではなかった。
43年、19回の裁判で真実を追う
パクと家族は、事件の真相と名誉の回復を求めて43年間、国を相手に闘った。裁判は計19回に及び、刑事事件の再審(確定した判決を、新たな証拠や誤りを理由にやり直す手続き)では無罪を勝ち取った。国家賠償を求める裁判でも、控訴審まで勝訴した。
しかし、法廷で勝つことは、問題のすべてが終わることを意味しなかった。2014年には、受け取った金銭を返すよう求める不当利得返還訴訟まで起こされた。無実を証明し、補償を受けた後にも、再びその補償をめぐって争わなければならなかったのである。
憲法裁判所への申し立てが認められたことで、パクはこの危機を乗り越えた。同じ事件について、民事と刑事の両方で再審を経て判決が覆り、さらに憲法裁判にも至った例は、韓国司法史上、唯一のケースとされる。長年にわたりパクを支え、強い信頼関係を築いた弁護士、チョ・ヨンファンの存在も、この闘いを支える大きな力となった。
本が描くのは、裁判の外に広がる傷
ソン・ソヨンの著書『遠くから来た春』は、パクの人生をたどりながら、スパイ容疑を作り上げるために使われた根拠や、家族を遠ざけた地域社会の反応、終わりの見えない法廷闘争を丁寧に描いている。事件の被害は、取り調べ室や裁判所の中だけにとどまらなかった。
「スパイ」とされた家族は、市民として地域の中で暮らす立場を奪われ、近隣の人々から距離を置かれることもあった。罪を着せられた人への疑いは、本人が釈放された後も周囲に残りやすい。公的な判決が覆っても、人間関係や生活に刻まれた傷を元に戻すには、時間と社会の理解が必要になる。
本書は、分断と戦争、軍事独裁の時代に国家が個人や家族に与えた影響を、ひとりの人生を通して見つめる。歴史上の事件を振り返るだけでなく、誤った捜査や司法判断がどのように人々の日常を壊し、その後の人生にまで及ぶのかを伝える一冊だ。
被害を受けた経験を、支援の力へ
「市民」としての居場所を奪われたパクは、無罪判決と国家賠償を得た後、その一部を国家暴力の被害者を支援する人権基金「真実の力」の設立に役立てた。自分が受けた苦しみを、同じような被害に遭った人々を支える仕組みへとつなげようとしたのである。
- 国家暴力の被害を受けた人や家族への支援
- 過去の事件を記録し、真相を伝える取り組み
- 分断や軍事独裁が残した傷を社会で考える機会づくり
補償金や賠償金は、奪われた年月をそのまま取り戻すものではない。それでも、被害者が次の被害者を支える活動に資金を託すことは、個人の回復を公共の財産へとつなげる一歩になりうる。パクの歩みは、民主主義を制度として守るだけでなく、人々が互いの尊厳を守る社会をつくることの意味も問いかけている。
「尊厳」は、傷つかないことではない
長い年月、パクのそばでその人生を見つめてきた著者のソン・ソヨンは、人間の尊厳は、決して崩れない完全さにあるのではないと述べる。傷ついた場所を見ないふりをせず、真実に向き合い続ける姿勢にこそ、尊厳が表れるという。
「人間の尊厳は、崩れない完全さにあるのではない。崩れた場所さえ見捨てず、最後まで真実の前に自分を立たせる姿勢にある。パク・ドンウンは、自らの人生でそのことを証明した」
『遠くから来た春』は、国家によって人生を奪われた人が、真実を求める闘いの先に何を築いたのかを伝える。春が遠くから訪れるように、正義の実現には長い時間がかかることがある。それでも、記録し、問い続け、次の被害を防ぐために動くことが、民主主義を支える力となる。
書籍情報
- 書名:『遠くから来た春』
- 著者:ソン・ソヨン
- 出版:真実の力
- 価格:1万8,000ウォン




















